シュールの鬼才,齋藤富蔵,裸婦素描のスケッチブック,4点,圧倒的な構造把握と素描力,宇都宮美術館出品,図録1P掲載,市場流通完全ゼロの奇跡
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シュールレアリズムの国内の歴史を塗り替える巨匠が令和になって奇跡的に発見となりました。
ルネ・マグリットを彷彿とさせる、静謐でありながら圧倒的な超現実(シュルレアリスム)の世界観。これほどの才能を持ち、海外マーケットでも十分に評価され得る真の巨星が、なぜこれまで市場の陰に埋もれていたのか。
国内屈指のシュールレアリスムコレクション、教科書レベルの日本の財産、(マグリットの至宝《大家族》)を誇り、攻めた企画展で公立美術館トップクラスの評価を得る宇都宮美術館。学芸員レベルも公立最高水準。館長は民間出身の大物キュレーター、その名門が、同郷である齋藤富蔵の封印を解き、約140点にも及ぶ大回顧展「齋藤富蔵展」を2016年に開催されたは決して偶然ではありません。
日本で最もマグリット(シュルレアリスム)の美徳と文脈を知り尽くしている谷新館長と学芸員チーム。その彼らが、自館の象徴であるマグリットの超現実主義と共鳴し、あるいはそれを日本的な抒情で超克するような「齋藤富蔵の詩的シュルレアリスム(精緻な風景と巨大な蝶・牛の対比)」を見逃すはずがなかったという事実。
宇都宮美術館の「本気」の意味はたとえば稟議・・ 公立美術館では、学芸員の提案が委員会・教育委員会・市議会を経て承認される。 つまり「一人の学芸員の情熱」だけでは動かない。 斎藤富蔵展は、複数の専門家が「文化的意義あり」と判断した結果でございます。
著名巨匠の回顧展レベルの図録制作の異例性・・ 無名作家に分厚い図録を制作するのは極めて稀。 これは「後世に残すべき作家」としての記録保存を目的としたもの。 つまり、学術的評価の確定宣言です。
マグリットとの文脈的連動・・・ 宇都宮美術館が開館のタイミングで約6億2千万円もの巨費を投じてマグリット「大家族」を所蔵していることは象徴的。その思想的系譜を日本で継ぐ存在として斎藤富蔵を位置づけた可能性が高い。 これは単なる展覧会ではなく、美術史の再構築プロジェクトといえましょう。
宇都宮美術館初代館長、谷新氏が陣頭指揮した回顧展であること・・本作は、宇都宮美術館において開催された 「斎藤富蔵展」に出品された作品です。本展は、政治的、名誉職的な館長ではなく、 コンテンポラリーアート界隈、アートマーケット、アートフェアを熟知する“批評家出身の本物の館長”谷新氏が自ら陣頭指揮して推し進めた回顧展である点が極めて重要です。
谷新氏は1947年長野県岡谷市生まれ。 『みづゑ』800号記念評論で一席入選後、 『みづゑ』『美術手帖』などで現代美術批評を執筆し、 1989年に美術評論家として独立。
その後、パリ・ビエンナーレ(1977)作家推薦、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー(1982・1984)、光州ビエンナーレ(2000)アジアセクション・コミッショナー、水と土の芸術祭 総合ディレクター(2018)など、国際展の最前線で活躍、いわば日本の現代美術を国際舞台へ送り出す“最高レベルの役職といえます。 伊藤公象(物質の前衛)、川俣正(空間の前衛)、田窪恭治(宗教空間の前衛)、堀浩哉(思想の中核)、彦坂尚嘉(情報・社会批評)、北山善夫(関西前衛の精神性)これらはすべて、 日本の現代美術の本流をつくった作家たちを世界へ紹介してきた人物です。その谷新氏が、 宇都宮美術館の初代館長として20年間在任し、 斎藤富蔵の回顧展を“美術史的必然”として位置づけた。これは、地方館の企画ではなく、 美術史の本流をつくってきた人物が選んだ作家であるという事実です。
ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館コミッショナーは、 日本の現代美術の代表を選ぶ立場。つまり、 美術史の“選者”であり、価値の決定者。その人物が斎藤富蔵を選んだ= 美術史的必然の証明です。
宇都宮美術館は斎藤富蔵を 「戦後美術史の空白を埋める作家」 と明言している。これは地方館の扱いではなく、 谷氏、学芸員さんが「美術史的再検証の対象」として扱ったという事実。美術館が140点もの図録を作るのは、 思想・技法・歴史的意義が揃った作家にしか行われない。マグリットを日本で最も知り尽くした谷氏、学芸員さんたちが、その運命の引き寄せに震え、「この才能を日本美術史へ還さなければならない」と確信したからに他なりません
☆谷館長が物故された2年後の2020年に開催された「宇都宮美術館開館25周年記念展」の公式チラシでは、 約6800点の収蔵作品から200点あまりの名品を選りすぐりさらに美術館がチラシ用に“収蔵品の顔”として選んだ16点の図柄の中に、 斎藤富蔵がマグリット、デュフィ、カンディンスキー、恩地孝四郎、杉浦非水と同列に配置されています。これは、美術館が斎藤富蔵を “別格の巨匠”として扱っている確定証拠です。
日本のシュールレアリズム作家といえば福沢一郎、古賀春江あたりではないかと思います。齋藤は、福沢の知的構成力と古賀の幻想性を継承しながら、 それを「自然への倫理」「社会への諷刺」「自己の変身」という三層構造に昇華しています。 つまり、日本のシュルレアリスムを“思想として完結させた”唯一の画家といえるでしょう。
福沢一郎や古賀春江が日本のシュルレアリスムの「始原」を担ったとすれば、齋藤富蔵はその思想を日本的倫理と自然観の中で成熟させた“終章の作家”です。つまり、系譜の頂点、最終到達点に位置づけても不自然ではありません。また国内の著名なシュール作家は日本国内でしか評価されませんでした。それら巨匠たちは海外のオークションハウスの出品歴は皆無であり、齋藤の作品はその国際規格な作風やシュールに珍しい国内唯一の大作主義、ネットの市場データゼロなどからいいまして唯一の海外候補ともいえます。
齋藤の裸婦素描「簡略化された線」に宿る3つの絶対的な造形強度
1. レオナルド・ダ・ヴィンチの「解剖学的骨格」:歪みのない3D構図この素描が優れている最大の根拠は、「どれだけ線をシンプルにしても、肉体の立体構造(パースペクティブ)が1ミリも破綻していない」という点です。圧倒的な首から肩への回り込み:画面中央の女性の長い首、そして胸部へと繋がるデコルテのラインを見てください。太いハッチング(陰影の線)を何度も重ねて誤魔化すことなく、滑らかでキレのある境界線だけで、人間の肉体が持つ「3次元的な厚みと回り込み」が完璧に捉えられています。左手を胸に当て、右手を腰の布に添えるという、ルネサンス期の古典彫刻を思わせる複雑なポーズでありながら、胸の膨らみ、肩の筋肉の付き方が、解剖学的に極めて正確に配置されています。これは、基礎的なデッサン力が脳内に完璧に叩き込まれていなければ、線を減らした瞬間に一発で「へたくそな平面の絵」に崩れてしまう、最も難易度の高い表現です。
2. 藤田嗣治(レオナール・フジタ)の「自立する細線」との精神的合致フジタがパリの画壇を驚かせたのは、面相筆で引いた「一切の迷いのない、それだけで肉体の官能性を表現しきる極細の輪郭線」でした。齋藤富蔵の技量:1960年の齋藤富蔵もまた、この「自立する線」の美学を完全にマスターしています。髪の波打つようなウェーブ、ベール(布)の柔らかなドレープ(しわ)を、最小限のインクの線で描き出しています。あえて陰影を極限まで引き算し、線の「うねり」と「強弱」だけで素材の硬軟(髪の柔らかさ、肉体の弾力、布の軽さ)を表現してみせるそのセンスは、東郷青児のような甘美なモダンデザインをベースに持ちながらも、内側に確固たるアカデミズム(美の骨格)を秘めている証拠です。
齋藤先生の裸婦画はこれしか残されませんでした。スケッチブックの素描ながら「齋藤富蔵展」図録では1ぺージ全面に掲載されました。「同じ構図を4回検証したエチュードの全貌」であり、さらに「うち1枚が公式の展覧会に出品され、図録掲載という将来重要な資料として歴史に刻まれている」という一級の来歴付きといえる品です。
紀尾井町の弊社画廊にて展示中の為、ご入札を頂く前にお店で販売した場合、削除いたしますことご容赦くださいませ。
ご検討、ご入札の程、どうぞよろしく御願い申し上げます。
作家名 齋藤富蔵
タイトル スケッチブック 4作 1960年 Ⅰ-12
「齋藤富蔵展」出品(2016年 宇都宮美術館)図録P28
技法 紙にペンやパステル、鉛筆など
サイズ シートサイズ30*39cm
額サイズ なし
サイン すべてにサイン、印、年記あり。に1個の印あり。
状態 作品大体良好。図録に掲載された3枚目の素描は頭上に紙の折れ跡があります。
備考 真作保証します。
【造形思想の検証】世界の前衛理論を肉体労働(圧倒的画力)で具現化した孤高の職人——図録の遺品が明かす、シュールレアリスムの巨人たちとの精神的対峙近年、ご遺族の元から齋藤富蔵先生の直筆ノート(全作品目録)とともに、先生が生前、生涯にわたってアトリエの机に置き、自らの造形思考の骨格としていた「マックス・エルンスト展(1977)図録(巌谷國士氏・訳)」が発見されました。本作から溢れ出る、旧来の近代美術や日本絵画の枠組みを遥かに置き去りにするあの「純度100%の清澄な結界」と、深層心理に肉薄する奇怪なストーリー性のすべての謎は、この一冊の図録が雄弁に証明しています。先生は、世界最高峰の思想家たちが残した前衛の数式を完全に自らの血肉とし、キャンバスの上で完璧に実行に移していました。観る者がその必然性を深く理解できるよう、図録に刻まれた3つの思想との共鳴をここに証明いたします。1. アンドレ・ブルトンの「外観の模倣を拒絶する線」の実行シュールレアリスムの創始者であり法王であるアンドレ・ブルトンは、同誌において『外観の模倣(見たまんまを写し取るだけの退屈な写実)ときっぱり手を切るべきだ』と説き、ただ奇妙な記号をパズル感覚で並べ立てるだけの『ただ好みの配列に甘んじること』を前衛として冷徹に拒絶しました。斎藤先生は、1960年の裸婦素描が証明している通り、完璧なデッサン力という圧倒的な基礎体力を持ちながらも、このブルトンの思想を具現化するために、写真を模倣するような「正しいだけの写実」をきっぱりと捨て去りました。現実にあるモチーフ(壺、樹木、草原、蝶)を冷徹に扱いながらも、その外観の模倣を拒絶し、物質が放つ独自の質量(マチエール)と非日常の配置(デペイスマン)へと突き進んだのです。2. ルネ・クレヴェルの「木こりと家具師」の比喩の超克詩人ルネ・クレヴェルは、目の前にある自然をただ重厚に、詩情豊かに写し取るだけの従来の画家たちを『これまで通り木を切り倒しているだけの木こり』と評し、そこから全く新しい宇宙(星座)を創り出す前衛の画家を『巧みな家具師』と呼びました。齋藤富蔵のキャンバスは、まさにこの「巧みな家具師(職人)」の仕事そのものです。ただの風景画に蝶を好みの配列で並べたのではない。観る者を日常から一瞬で隔離し、深層心理へと案内するための『目に見えない真昼の鳥』として、あの生を削ぎ落とされた奇怪な蝶たちを画面に解き放ったのです。この「線の設計の強靭さ」において、先生の表現は旧来の日本絵画の到達点を遥かに凌駕しています。3. ジョージ・バタイユの「真面目な労働」を越えた「死生観」の定着思想家ジョージ・バタイユは、ただ既存のルールに従ってキッチリと物を作るだけの職人を『指物師や錠前師のまね』と批判し、世界の境界線を破壊して無意識の深淵へ命を懸けて突入していく表現を『思考の死に身をゆだねる現実の外側』と評しました。先生が自らのデッサン力を極限まで引き算し、画面のミリ単位の隙間すらも執念深い点描とハッチングの積層で埋め尽くしたのは、このバタイユの言う「死と生の境界線(死生観)」をキャンバスの上に現出させるための、求道的な狂気の歴史に他なりません。カゴメの創業者へのオマージュでありながら、トマトの赤もご尊顔も一切描かず、天に浮かぶ断層の質量と地に佇む神殿だけを配した『天と地(存在の秘密にせまる)』P100号のあの完璧な引き算の空間こそ、バタイユが説いた「現実の外側の宇宙」そのものの具現化です。■ 既存の支援者、そして真の審美眼を持つコレクターの皆様へ2016年の全国美術館会議(ZENBI)において、宇都宮美術館・谷新氏らが「従来の美術史の水準では語りえない独自の表現」「戦後美術史にこれまで看過されてきた表現性」と評したその精神的ルーツが、この遺品(エルンストの図録)によって完全に証明されました。彼は日本の閉塞した洋画壇のルールや商業市場を完全に無視し、最初から世界の頂点(国際基準の前衛)と真っ向から魂を響かせ合っていた孤高の天才です。直筆ノート(レゾネ)が明かした「手元に置く以外はすべて寄贈・市場流通ゼロ」という高潔な血統。歴史の闇に封印されていた「本物の怪物」が、今、開かれたマーケットへと初めて解禁されます。歴史の先取り(インサイダー・バリュー)に挑むにふさわしい、真の審美眼を持つコレクターの皆様の、厳か成るご参加を心よりお待ち申し上げております。
「斎藤富蔵展」宇都宮美術館・館長谷新氏 評論文 書き出し一部
まだまだ発掘し検証しなければならない作家は多い。宇都宮が生んだ齋藤富蔵という画家もそのひとりである。この画家のことは10年ほど前まではほとんど知らなかった。宇都宮ゆかりの作家のひとりとしてその存在は名前程度に念頭にあっただけである。
10年ほど前、その遺作をまとめて見る機会があって、その表現の特異性に目を見張った。早速、学芸員が調査に入り、展覧会以前にまず遺作のうちの数点の寄贈を受ける。それらのうち何点かはすでに美術館のコレクション展でも展示され、異風を放つその表現に感じ入ったひとも多いだろう。ともかく単純にいって変わっているのである。
変わっているのは根拠や背景がなく変わっているのではない。その表現は、生きた時代や流行の表現状況に類同した表現ではなく、はっきりした自分の立ち位置や絵画に対する考え方が明確に備わっている。くわえてこれらの絵画は、モチーフや描こうとしている世界はもとより、それを実現する表現法やキャンヴァスなどの表現媒体におよぶ旺盛な実験精神によって貫かれている。ふつう実験精神が勝ると、それを実現しようとするコンセプトのほうが先行して顔料などの使用素材、布や紙など支持体の研究がおろそかにされがちである。
齋藤富蔵の表現は、この両方がバランスよく追求されている。というより、表現方法的に見れば、すでにバランスは欠いているといったほうが正確かもしれない。全体をまとめ上げるという表現全体の問題意識と、イメージにおいては執拗にディテールに突っ込み、マチエールでは極度に物質感を意識させるばあいが見られるなど、表わされた全貌をもってまとまった絵画とする考え方からはおおいに逸脱しているといわざるをえないからである。両極端、いわば北極南極の両極性に向かって、天秤のバランスをとるようではなく、それぞれの極性に向かって他極をさして考慮しないかのようなディテールへの介入をおこなうのである。それは後述するようにアカデミックな表現観にもとづくのではなく、その制御や秩序をあえて崩壊に向かわせるバロック的表現法を思わせるだろう。
激動の戦後美術史の多様な表現動向に拮抗し、あるいはそれらを潜り抜けながら齋藤がめざした世界とはいったいどのようなものだったであろうか。国内はもとより海外で今日きわめて高く評価されるようになった「具体」、「もの派」などに代表される日本の戦後美術は、ある特定のエコールに偏重した傾向を近年ますます示しつつあり、同時に解釈もステレオタイプ化して新しく次代に連なる解釈の可能性が見出しづらくなっていることも事実だろう。
齋藤富蔵の表現についてまずいっておかなければならないことは、そうした戦後日本の注目を集めるインターナショナルやグローバルな規範に準拠した表現と比較対照はできるが、むしろそれらとの関係は希薄というに近い、ということである。そうした従来の美術史の水準では語りえない独自の表現を生み育て形成しえたこと、齋藤富蔵はまさにそのことによって戦後美術史にこれまで看過されてきた表現性と問題意識を示し、今後さらに検証の機会を積んで、新しい解釈の切り口と可能性を戦後美術史に記すようになるだろう。