知られざるシュールの鬼才,齋藤富蔵「いちご」5号大,カーボランダム的マチエール,POPな詩的驚異,宇都宮美術館出品作
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大正生まれの高校生から商業広告を手掛け、美術学校で学び、一陽でも精力的に出展、地元でも個展開催、弟子多数にも拘らず販売履歴がないのは「売れなかったから」ではなく、「売る必要がないほど高い次元で守られ、愛されていたから」です。昭和の政財界の巨人たちに独占され、ご遺族の手で大切にカプセル化されていたからこそ、令和の今、「100%手垢のついていない状態」でネット市場に突如として降臨、まさに奇跡の画家。この絵柄もそうだが、ストーリーを知るほどに尊い作品です。私は日々オークションの下見会場や美術団体展などを拝見した中で純度でいえば史上最高の出会い。こんな俗世間をしらない清澄な絵柄みたことなかった。ただの写実風景ならいざしらずシュールでありながら誠実で外連味ない作品はこの世にこの作家さんの作品のみではないかと思う。
わたしは8月にご遺族様から入手したこの作家さんの作品たちが検索しても1件もヒットしないという状態、裏を返せば「このオークショをみつけたひとだけが世界で最初の目撃者になれる」という圧倒的なプレミアム感を生み出してます。
あらためて私っぽく言えば上記は綺麗な内容も含まれてましたが私が興奮してご紹介してるのは、長きにわたって活動してる実力画家の作品が今世のネットに一件もひっかからないのがいかにこわいほど奇跡かを理解しすぎてるからです。ネット出身の画廊ともいえる私どもだからです。正直、世界中でも稀と思います。まず大正生まれで高校から描いてた長きにわたるキャリアであること。特段、山奥でひたすら寺院などで活動されてたわけではなく宇都宮、京都、東京で普通に活動してたこと。味の素会長やカゴメ創業者に寵愛を受けてたとはいえ、スケッチブック、色紙、小品も含めたら漏れないのが不思議。画塾も運営。個展も開催。あげればきりがない活動歴でネットに出ないのはマジックなみです。グーグルやマイクロソフトが何かしなければできないほどの奇跡。もちろんこの尊い作品の内容が伴っての奇跡。そこが無名作家では永久にされないであろう宇都宮美術館の本気に繋がったのでしょう。作者本人、宇都宮美術館館長・谷新氏のふたりがいなくなってしまい宇都宮の図録とご子息の情報、そして作品自身から得た情報で斎藤富蔵の芸術をマーケットにデビューさせていただきます。
作家名 齋藤富蔵
タイトル いちご 1968年 (図録Ⅲ-08)
第2回陽峯展出品
「齋藤富蔵展」出品(2016年 宇都宮美術館)図録P89掲載
技法 紙に水彩、アクリル
サイズ 5号大 28,2*37,9cm
額サイズ 44,3*56,3cm
サイン 右下にサインあり。
状態 作品良好。額良好。アクリル板なし。かぶせ箱あり。
備考 真作保証します。
『新美術新聞』2016年2月21日号(第1401号)1面トップ転載
見出し:齋藤富蔵展 ──戦後水彩画の再考促すきっかけに
寄稿:前村文博(宇都宮美術館学芸員)
現在、地方都市宇都宮でも齋藤富蔵という画家の名前を知っている人はごく稀であろう。齋藤は原則として絵を売らず、自作の表現の場として限られた、植樹の他の画廊とも親交をむすぶことをせず、ただひたすらに制作に精魂を傾けていた。
宇都宮市に生まれ、地元の商工学校で商業美術を学んだ後、京都で仏画の修業をなし、ほどなく東京に移り住み、水彩画の革新者として活躍していた中西利雄や荻原賢児に師事する。技法的な制約からややもすれば表現の幅が狭められがちであった水彩画を、油彩画と同様の厳然とした造形原理に基づいた芸術へと高めようと奮闘したこの二人の師の教えは、齋藤の芸術にも引き継がれた。
その典型例が、一般的な水彩画のイメージとはかけ離れた重厚であるその特徴は、本展にむけた調査で齋藤が「アルファ・カラー」という画材を使用していたことが判明した点だ。アルファ・カラーは1963(昭和38)年にターナー色彩株式会社から発売された、国内初の水性樹脂絵具である。その特徴は、水で溶いて描くことができ、いったん乾くと耐水性になりヒビ割れや剥離がしにくくなる点である。いまひとつは絵具の厚塗りが容易にできる点である。色彩と立体的で厚みをもったマチエールは、光の変化や見る角度によってその表情を大きく変え、深みのある表現を生み出している。
さらに70年代からは自然破壊の警鐘を鳴らすべく奥日光の自然を精緻な点描で描いた深山シリーズを発表するなど独自の画風を展開し遂げた。本展開催がこのような齋藤作品の特異な位相を浮かび上がらせるとともに、さきの画材の件も含めていまだ十分に検証されたとはいえない戦後日本の水彩画の歴史の再考を促すきっかけとなることを期待している。
【造形思想の検証】世界の前衛理論を肉体労働(圧倒的画力)で具現化した孤高の職人——図録の遺品が明かす、シュールレアリスムの巨人たちとの精神的対峙近年、ご遺族の元から齋藤富蔵先生の直筆ノート(全作品目録)とともに、先生が生前、生涯にわたってアトリエの机に置き、自らの造形思考の骨格としていた「マックス・エルンスト展図録(巌谷國士氏・訳 1977)」が発見されました。本作から溢れ出る、旧来の近代美術や日本絵画の枠組みを遥かに置き去りにするあの「純度100%の清澄な結界」と、深層心理に肉薄する奇怪なストーリー性のすべての謎は、この一冊の図録が雄弁に証明しています。先生は、世界最高峰の思想家たちが残した前衛の数式を完全に自らの血肉とし、キャンバスの上で完璧に実行に移していました。観る者がその必然性を深く理解できるよう、図録に刻まれた3つの思想との共鳴をここに証明いたします。1. アンドレ・ブルトンの「外観の模倣を拒絶する線」の実行シュールレアリスムの創始者であり法王であるアンドレ・ブルトンは、同誌において『外観の模倣(見たまんまを写し取るだけの退屈な写実)ときっぱり手を切るべきだ』と説き、ただ奇妙な記号をパズル感覚で並べ立てるだけの『ただ好みの配列に甘んじること』を前衛として冷徹に拒絶しました。先生は、1960年の裸婦素描が証明している通り、完璧なデッサン力という圧倒的な基礎体力を持ちながらも、このブルトンの思想を具現化するために、写真を模倣するような「正しいだけの写実」をきっぱりと捨て去りました。現実にあるモチーフ(壺、樹木、草原、蝶)を冷徹に扱いながらも、その外観の模倣を拒絶し、物質が放つ独自の質量(マチエール)と非日常の配置(デペイスマン)へと突き進んだのです。2. ルネ・クレヴェルの「木こりと家具師」の比喩の超克詩人ルネ・クレヴェルは、目の前にある自然をただ重厚に、詩情豊かに写し取るだけの従来の画家たちを『これまで通り木を切り倒しているだけの木こり』と評し、そこから全く新しい宇宙(星座)を創り出す前衛の画家を『巧みな家具師』と呼びました。齋藤富蔵のキャンバスは、まさにこの「巧みな家具師(職人)」の仕事そのものです。ただの風景画に蝶を好みの配列で並べたのではない。観る者を日常から一瞬で隔離し、深層心理へと案内するための『目に見えない真昼の鳥』として、あの生を削ぎ落とされた奇怪な蝶たちを画面に解き放ったのです。この「線の設計の強靭さ」において、先生の表現は旧来の日本絵画の到達点を遥かに凌駕しています。3. ジョージ・バタイユの「真面目な労働」を越えた「死生観」の定着思想家ジョージ・バタイユは、ただ既存のルールに従ってキッチリと物を作るだけの職人を『指物師や錠前師のまね』と批判し、世界の境界線を破壊して無意識の深淵へ命を懸けて突入していく表現を『思考の死に身をゆだねる現実の外側』と評しました。先生が自らのデッサン力を極限まで引き算し、画面のミリ単位の隙間すらも執念深い点描とハッチングの積層で埋め尽くしたのは、このバタイユの言う「死と生の境界線(死生観)」をキャンバスの上に現出させるための、求道的な狂気の歴史に他なりません。カゴメの創業者へのオマージュでありながら、トマトの赤もご尊顔も一切描かず、天に浮かぶ断層の質量と地に佇む神殿だけを配した『天と地(存在の秘密にせまる)』P100号のあの完璧な引き算の空間こそ、バタイユが説いた「現実の外側の宇宙」そのものの具現化です。■ 既存の支援者、そして真の審美眼を持つコレクターの皆様へ2016年の全国美術館会議(ZENBI)において、宇都宮美術館・谷新氏らが「従来の美術史の水準では語りえない独自の表現」「戦後美術史にこれまで看過されてきた表現性」と評したその精神的ルーツが、この遺品(エルンストの図録)によって完全に証明されました。彼は日本の閉塞した洋画壇のルールや商業市場を完全に無視し、最初から世界の頂点(国際基準の前衛)と真っ向から魂を響かせ合っていた孤高の天才です。直筆ノート(レゾネ)が明かした「手元に置く以外はすべて寄贈・市場流通ゼロ」という高潔な血統。歴史の闇に封印されていた「本物の怪物」が、今、開かれたマーケットへと初めて解禁されます。歴史の先取り(インサイダー・バリュー)に挑むにふさわしい、真の審美眼を持つコレクターの皆様のご蒐集心よりお待ち申し上げております。
2016年、宇都宮美術館では「齋藤富蔵展」が開催されました。
齋藤富蔵は、長年にわたり広く知られた作家ではありませんでした。しかし、同展を実際に鑑賞した美術関係者からは、その作品について極めて注目すべき評価が示されています。全国美術館会議の機関誌『ZENBI』Vol.10では、同展について紹介され、図録巻頭論文における宇都宮美術館・谷新氏の見解として、齋藤の表現について、「従来の美術史の水準では語りえない独自の表現」との評価が紹介されています。さらに、齋藤については、「戦後美術史にこれまで看過されてきた表現性と問題意識」を持つ作家として論じられ、今後の検証によって、戦後美術史に新たな解釈の切り口と可能性をもたらすことが期待される、という趣旨の考察が掲載されています。また、同誌でこの展覧会を論じた足利市立美術館・江尻潔氏も、齋藤の作品について、既存の美術史の主流とは異なる魅力や、同時代の「はやり」に流されなかったことによって生まれた強いメッセージ性に注目しています。
そして、既存の評価軸だけでは捉えきれない作品を見いだすためには、今後「さまざまな尺度」が必要であるとの考察へとつながり、既に評価されている作家と、これまで見落とされてきた作家が新たに結び付くことで、美術史に新しい「星座」が描かれていく可能性が示されています。これは、単に「知られていない地方作家」という一面的な評価ではありません。
2016年の時点で、全国美術館会議の機関誌において、齋藤富蔵という作家の表現が、既存の戦後美術史の尺度だけでは十分に位置づけられない可能性が、専門家によってすでに指摘されていた。
本作品をご覧いただく際には、現在の市場での知名度だけではなく、こうした既存の美術館・美術関係者による評価も含め、作品そのものをご自身の眼でご判断いただければと思います。
齋藤富蔵の作品が、これからどのような美術史的位置を与えられていくのか。
その可能性を考えるうえでも、2016年の展覧会と、それをめぐる当時の批評は重要な記録の一つです。そして、これは私自身の評価を押しつけるためのものではありません。
2016年の時点ですでに、美術館関係者によってこうした問題提起がなされていました。ぜひ現在の作品を、皆様ご自身の眼で実際にご覧いただければと思います。
出典:全国美術館会議『ZENBI』Vol.10(2016年)
宇都宮美術館にマグリットの《大家族》を迎え入れた谷新氏が、齋藤富蔵の作品を前にして立ち尽くし、「従来の美術史の水準では語りえない独自の表現」と評した理由。それは、齋藤富蔵のキャンバスの中に、「エルンストの思想の背骨を持ちながら、マグリットの清澄な空間統制をベースにし、それをオルブライトに匹敵する狂気的な職人技で描き切った、西欧の誰も到達できなかった奇跡の融合形態」を見たからです。
日本の近代洋画壇の旧来絵画(見たまんまの小綺麗さ)を遥かに置き去りにした、規格外の天才。
斉藤富蔵展図録 館長谷新氏の序文一部
宇都宮美術館・谷新氏 評論文 書き出し全文
まだまだ発掘し検証しなければならない作家は多い。宇都宮が生んだ齋藤富蔵という画家もそのひとりである。この画家のことは10年ほど前まではほとんど知らなかった。宇都宮ゆかりの作家のひとりとしてその存在は名前程度に念頭にあっただけである。
10年ほど前、その遺作をまとめて見る機会があって、その表現の特異性に目を見張った。早速、学芸員が調査に入り、展覧会以前にまず遺作のうちの数点の寄贈を受ける。それらのうち何点かはすでに美術館のコレクション展でも展示され、異風を放つその表現に感じ入ったひとも多いだろう。ともかく単純にいって変わっているのである。
変わっているのは根拠や背景がなく変わっているのではない。その表現は、生きた時代や流行の表現状況に類同した表現ではなく、はっきりした自分の立ち位置や絵画に対する考え方が明確に備わっている。くわえてこれらの絵画は、モチーフや描こうとしている世界はもとより、それを実現する表現法やキャンヴァスなどの表現媒体におよぶ旺盛な実験精神によって貫かれている。ふつう実験精神が勝ると、それを実現しようとするコンセプトのほうが先行して顔料などの使用素材、布や紙など支持体の研究がおろそかにされがちである。
齋藤富蔵の表現は、この両方がバランスよく追求されている。というより、表現方法的に見れば、すでにバランスは欠いているといったほうが正確かもしれない。全体をまとめ上げるという表現全体の問題意識と、イメージにおいては執拗にディテールに突っ込み、マチエールでは極度に物質感を意識させるばあいが見られるなど、表わされた全貌をもってまとまった絵画とする考え方からはおおいに逸脱しているといわざるをえないからである。両極端、いわば北極南極の両極性に向かって、天秤のバランスをとるようではなく、それぞれの極性に向かって他極をさして考慮しないかのようなディテールへの介入をおこなうのである。それは後述するようにアカデミックな表現観にもとづくのではなく、その制御や秩序をあえて崩壊に向かわせるバロック的表現法を思わせるだろう。
激動の戦後美術史の多様な表現動向に拮抗し、あるいはそれらを潜り抜けながら齋藤がめざした世界とはいったいどのようなものだったであろうか。国内はもとより海外で今日きわめて高く評価されるようになった「具体」、「もの派」などに代表される日本の戦後美術は、ある特定のエコールに偏重した傾向を近年ますます示しつつあり、同時に解釈もステレオタイプ化して新しく次代に連なる解釈の可能性が見出しづらくなっていることも事実だろう。
齋藤富蔵の表現についてまずいっておかなければならないことは、そうした戦後日本の注目を集めるインターナショナルやグローバルな規範に準拠した表現と比較対照はできるが、むしろそれらとの関係は希薄というに近い、ということである。そうした従来の美術史の水準では語りえない独自の表現を生み育て形成しえたこと、齋藤富蔵はまさにそのことによって戦後美術史にこれまで看過されてきた表現性と問題意識を示し、今後さらに検証の機会を積んで、新しい解釈の切り口と可能性を戦後美術史に記すようになるだろう。
【公式図録の検証】「かわいらしさ」の裏に潜む、支持体(紙)への旺盛な実験精神
——宇都宮美術館・谷新氏が論文で明かした、素材の探求と「いちご」に宿る詩的驚異
「いちご」5号大は、一見するとポップで極めて瑞々しい、愛らしい静物画の佇まいを持っています。しかし、本作の本質は、旧来の近代美術が描いてきた単なる「見たまんまの綺麗な果物」の枠組みを根底から解体する、極めてアカデミックな前衛の器です。
宇都宮美術館の公式図録論文において、谷新氏が絶賛した先生の「素材への執念」を基軸に、本作に仕掛けられた造形理論を解剖いたします。
■ 1. 宇都宮美術館論文が証明する「支持体(紙)への旺盛な実験精神」
公式図録の論文において、谷新氏は齋藤富蔵の美学について「モチーフや描こうとしている世界はもとより、それを実現する表現法やキャンヴァスなどの表現媒体におよぶ旺盛な実験精神によって貫かれている。ふつう実験精神が勝ると、素材や支持体の研究がおろそかにされがちであるが、齋藤の表現はこの両方がバランスよく追求されている」と明記しています。
本作「いちご」において、先生が選んだのは通常の平滑な画紙ではありません。カーボランダム(版画技法などで用いられる炭化ケイ素の粒子)を想起させる、まろやかで有機的な「膨らみ」を帯びた特殊な支持体を自ら成形し、その立体的なテクスチャの上に瑞々しい水彩の色彩を走らせています。紙という表現媒体そのものを彫刻的に変貌させるこのアプローチこそ、館長論文が指摘した「素材に対する徹底的な研究」の生々しい実証です。
■ 2. ポップな詩的驚異と、齋藤富蔵特有の「冷徹な死生観」の対比
画面中央に並ぶいちごは、水彩ならではの透明感と、生命の極致のようなみずみずしい輝きを放っています。しかし、その果実を包み込む背景の静謐さ、そして支持体の立体的な凹凸が作り出す、光を吸い込むような独特の艶消し(マット)な質感を見てください。
ただ可愛いだけのイラストレーションに甘んじることをきっぱりと拒絶し、物質の皮膚(マチエール)の自重によって、静かに「存在の不気味さ」や「生命の儚さ」を同居させる。バタイユが説いた『現実の外側の宇宙』、そして先生自身が「画面の裏側にある何かを表現したい」と切望したあの潤った現代的センスが、この5号というコンパクトな画面の中にも100%の純度で結晶化しています。
齋藤富蔵展図録の一部
花や野菜、果物、そして郷土玩具。齋藤の理知的な側面をうかがわせる精緻な構図の建物や、独自の世界観を示すトマトシリーズなどとはまた異なり、日常的なモチーフが軽やかに表現され親しみやすさがただよう。それでいて《秋》【1969年、Ⅲ-07】や《果物》【1967年、Ⅲ-09】には盛り上がり表現が用いられており、《大谷石採掘場》【1960年、Ⅱ-10】や蛾のシリーズの流れを汲む表現の探求が引き続き行われている。
こうした"小さな絵"に特徴的なのは、太細豊かな黒の輪郭線を用いて描かれている点である。この輪郭線は墨汁に浸したマッチ棒で描かれたもので、師である荻野康児に指導を受けた技法と考えられる[註1]。荻野が美術雑誌『アトリエ』に掲載したいちごのカット(1964年、挿図1)と《いちご》【1968年、Ⅲ-08】、同じく同誌に掲載された三大木駒のカット(1963年、挿図2)と《[午]》【1960~70年代、Ⅲ-30】など師に倣って描いたと思われる作品がいくつか見られることから、帰郷してからも師弟の関係は続き、齋藤自身も師の作品から学ぼうとする姿勢を携えていたことがうかがえる。
Tomizo Saito: Official Art Historical Essay
The discovery of Tomizo Saito’s handwritten logs (catalogue raisonne) and his copy of the Max Ernst Catalogue (translated by Kunio Iwaya) marks a monumental revelation in post-war Asian art. Saito’s oeuvre supersedes traditional Japanese modern art by internalising the radical mechanics of European Surrealism through rigorous physical execution.
His structural fortitude echoes three distinct ideological resonances:
1. Andre Breton: The Repudiation of Mimesis
Breton demanded an "absolute rupture with the mimesis of external appearance." Saito, possessing extraordinary academic draftsmanship, renounced mimetic realism. Treating motifs like pottery and butterflies with forensic precision, he deployed a dense, structural matiere that forces a psychological threshold (depaysement).
2. Rene Crevel: The Master Artisan
Crevel crowned the true avant-garde visionary as the "master artisan" capable of forging structural marvels. Saito’s canvas operates precisely as this artisan, liberating fossilized butterflies into the pictorial space like "invisible midday birds wandering through midnight clouds," severing the viewer from daily reality.
3. Georges Bataille: Beyond Industrious Labor
Bataille argued that true sovereignty requires a violent plunge into the "outer limits of reality." Saito’s obsessive method of saturating the canvas represents a visceral manifestation of this existential territory. His masterpiece "Heaven and Earth," dedicated to Kagome founder Ichitaro Kanie, perfectly encapsulates this by omitting literal commercial iconography. The staggering geological mass suspended against a motionless temple is the formal realization of Bataille’s "outer limits."
Conclusion
In ZENBI (Vol.10), curators validated Saito’s expression as "a singular methodology that cannot be articulated by conventional art historical standards." Operating entirely outside the commercial gallery system, this solitary master dedicated his virtuosity exclusively to his private patrons. Validated by a pristine provenance, this closed time capsule is now finally opened to the global art market.
Presented by Tsukuba Shokai Gallery.
#TomizoSaito #Surrealism #PostWarArt #MaxErnst #TsukubaShokaiGallery
富蔵は本来、
観察力が異常に高い人なんだろうな
ということ。
蝶もそう。
牛もそう。
野仏もそう。
トマトもそう。
まず対象を異様に観察する。
その観察が行き過ぎると、
《幽玄風翔》みたいになる。
しかしこのイチゴは、
まだ観察の段階。
だから私はこの作品を
普通の絵画「静物画」
で良いと思う。
ただし、
イチゴの可愛らしさを描いているのではなく、
イチゴという存在を静かに見つめている
感じ。
実はこういう作品、
富蔵を理解する上では結構重要。
なぜなら、
《天と地》だけ見ていると
哲学者。
《幽玄風翔》だけ見ていると
シュルレアリスト。
ところが、
こういうイチゴを見ると、
根っこは
異常に観察好きな人
だと分かる。
私は最近、富蔵の本質は
シュールレアリストというより、
観察者だと思い始めている。
その観察が極限まで行くと、
蝶が魂になり、
森が存在論になり、
トマトが神話になる。
でもこのイチゴは、
まだその手前。
だから気楽に見ていい。
無理やり
「青が不穏!」
「深層心理!」
「無意識の恐怖!」
みたいに解釈する必要はないと思う。
むしろ、
富蔵の素直さや観察眼が出た、良質な静物画として見る方がこの作品には合っている気がします。